2005/06/25(土)
このエントリーは
靖国神社は部落差別を行っている?(5/29)の続きです。
ネットで流れている
また「屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々も排除された。
の文字列は私が確認できた限りでは田村譲氏のサイトの「靖国神社」というページ
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yogokaisetyu.html
が源流です。アーカイブを見ると2001年7月の同ページには記述はなく2001年8月に上記の文章その他が追加されています。
平山洋様のコメントで
布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』(三一書房1980年)
がこの文字列の出典であるという指摘が引用と共にありました。平山様の見事なまとめのコメントと重複しますが、少々長文ですが引用したいと思います。
P289
幕末の戦争で死亡した人々は、ほとんどが招魂場に祭られることとなったが、一新組の戦死者の場合はどうであったか。御楯隊の戦死者は防府桑ノ山の招魂場に祭られることとなったが、『尊攘事跡列伝』中に見える御楯隊戦死者の記事を拾うと、七月二八日大野の戦闘で死んだ入江信之の記事中に、
入江信之(略)死時十八、送葬遺骸於花浦桑山之招魂場送埋之事、以下皆同依亦不書之、後皆倣之 但屠卒不在此例
とあって、招魂場に送埋することは以下同じであるが、屠卒はこの限りではないとしている。即ち、一新組は招魂場に葬られなかったのである。
(太文字はhiepita)
『尊攘事跡列伝』(山口県文書館所蔵。毛利文庫)
七月二八日は(慶應二年1866年)
「但屠卒不在此例」を布引氏は「屠卒はこの限りではない」と解説しています。
田村氏HPの文字列の「屠卒<略>はこの限りにあらず」の文字列の出典はこれであろうということです。
文章は以下のように続きます。
右の記事のあとに続けて御楯隊の大野での戦死者九名の氏名・戦死の場所・日付・年令等が
一新組某
一新組者花浦之屠卒也、附属於我隊也、某八月七日大野之戦被重創、後死於病院、時年若干
と記されている。御楯隊の死者の後に記されていること、氏名・年令が不明である等は、招魂場に埋葬されないことと同様に、明らかに差別の存在を物語っている。
大正四年(一九一五)一〇月三日に山口市亀山における四境戦役戦傷病死者五十祭執行のため調査した『慶応弐年四境戦役戦傷病死者名簿』には、戦傷病死者それぞれの死去年月、死所、死状、族籍隊名、位階、死者氏名及年令、墓地・招魂場、死者トノ続柄、遺族住所氏名について記載表記してあるが、この中より被差別部落民諸隊の戦傷病死者について抜き出すと、次の表である。
(太文字はhiepita)
『慶應弐年四境戦役戦傷病死者名簿』(山口県文書館所蔵。県庁記録)
ここで表は略しますが、内容は4名の死者が書いてあり、2名は族籍隊名が茶洗で氏名及び年齢、墓地・招魂場が明記してあるのに比べ、他2名は維新団の才吉、一新組は御楯隊屠卒某とあるだけで年齢、墓地・招魂場は書いてありません。
文章は以下のように続きます。
これによると、山代の茶筌は姓名もわかり、招魂場にも埋葬されているのに比して、維新団・一新組の者は、姓名もわからず、招魂場にも埋葬されていないのである。これは茶筌とえたの差別の深浅を示すものであるが、さらには維新団・一新組の者らは靖国神社にも合祀されない事を意味している。同じ維新の業にたおれた者でもこうした差別があるのであり、これは明治四年の「解放」令がいかに形式的・無内容なものであるかの証左でもあろう。
(太文字はhiepita)
茶筅、茶筌、茶洗は同じ被差別民を指す言葉です。長州藩だけでなく他の中国地方でも使われますが、えたとは異なる身分として扱われ、またえたと茶筅の間でも争いがあったとのこと。(小林茂著『部落史用語辞典』(柏書房)
上記のように、地元の招魂場に祀られていないこと、そして靖国神社にも合祀されていない事を意味するという差別の指摘なども、田村氏HPの文字列のソースであることと思わせます。
同様に小泉首相靖国参拝違憲アジア訴訟団のHPの黒田伊彦氏のテキストも同書をソースとしていると思わせます。なぜなら
その時も「但屠卒はこの限りではない」として、やはり被差別部落民を排除したのです。
と同書の「但屠卒不在此例」の原文と「屠卒はこの限りではない」の解説の文字列がそのまま使われているからです。そのまま使われている黒田氏のテキストと「この限りにあらず」と違いがある田村氏のテキストを較べて推理してみると、実は田村氏のテキストのソースは黒田氏の何らかの著作なのかもしれません。つまり、
布引氏の著書 → 黒田氏の著書 → 田村氏のHP という流れがあるのではないかという推理憶測です。ただこれは憶測の範疇からでるものではありません。
この推理の根拠にならないかと、黒田伊彦氏の著書に当ってみたのですが。amazonで検索しても著書は7冊(1985から2001年)は出ているのですが、残念ながら私の地元の県立図書館のHPでの蔵書検索サービスでは一冊もヒットしませんでした。黒田氏の地元の大阪市立図書館、国立国会図書館の蔵書検索では6冊ヒットしますが、残念ながら利用するには私のテリトリー外です。(大阪府立図書館は現在サービス停止中)
田村氏のHPにせよ、黒田氏のテキストにせよ、言葉を選んで書くならば「あまりにも簡潔すぎて誤解をまねく表現」があり、引用した人も勘違いしていく、つまりミスリードを誘いやすいテキストではないでしょうか。
憶測ついでに書くと流布しているこの文字列の特徴ともいえる
屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)
という説明からは幕末というよりも明治以降の食肉目的の屠畜業の印象を受けるのですがどうでしょうか。特に豚。
同書には斃牛馬処理という職業についてページが割かれているのですが、そこでも幕末までなら病死老死の牛馬の死体処理から皮革業が当時の職業であって、表向きは皮のために牛馬を殺すことも食肉のために殺すことは非合法でむしろ死罪も含む重罰の対象だったようです。 色々な事情を含んだ隊だったのだろうとしか想像をたくましくするしかないのですが、所詮は想像です。
最後に
布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』(三一書房1980年)
に出てくる上記以外の「屠卒」という言葉がでてくるページの引用を羅列します。同書が典拠としている一次史料も数点あるようです。山口県文書館蔵書がほとんどのようです。(打ち込みしんどいなあ、OCRソフトだと一発なんでしょうか)
P212
『時政亀蔵覚書』には、「一、慶応二寅ノ七月佐野久淵両村屠卒三拾六人世話仕、御楯隊へ相属し芸地籠越、御楯隊より司令冷泉様諸共戦争番兵共渇々相勤候事」とある。
P271
さらに同じ九月の御密用方宛木梨連報告書は、御楯隊の戦死者の氏名・位階を記入した後に「同隊 屠卒者壱人」と記している。この屠卒者とは一新組の兵士のことである。記載形式もさることながら、文久三年の「屠勇取立」令では「穢多之名目被差除」る筈であったが、慶応二年の今「屠卒者」という表現がなされるのは、まさに名目のみのエタ身分からの解放であり、真の解放は未だ実現されていないことを明白に物語っている。
九月(慶應二年1866年)
御密用方宛木梨連報告書→『四境役之際討死手負書取控』
P276
こうして自主的に下から結成された人民的要素を色濃くもつ上関茶筌隊は弾圧解体され、一方茶筌隊の解体の直後の五月には維新団が、上から権力に奉仕するものとして‐人民的要素の潜在化を余儀なくさせられて‐組織される。こうした事情が戦死者を「屠卒者」として報告するというような、軍隊内における差別を残す原因を作った。
布引氏が傍点とした箇所を下線としました。
P280
この文書ではこの「屠卒者」は「右七月廿八日芸州於大野ニ」手負となっており、さらにもう一人「屠卒者」が高森で死んだことを載せている。一方、芸州口戦争記所載の御楯隊戦傷死者付立には、「外ニ一新団 手負重吉 今壱人即死」とあり、場所は「右七月廿八日於 大野村中山ト申所」と記されている。この二つの文書の記述が一致するので「屠卒者」が一新組(団)隊員であることはまちがいない。
まず、屠卒者=一新組隊員 であるという根拠です。
次に一新組=被差別部落民の諸隊の一つであることの説明です。
P281
慶応二年(一八六六)の長州征伐の時に維新団や一新組などの被差別部落民の諸隊が活躍したことはよく知られている。一新組とは、天野御民の『諸隊編製』によれば、
一新組 慶応二年丙寅六月、四境之戦ニ佐波郡花浦 三田尻 之屠者一隊ヲ造り、御楯隊ニ附属シテ芸州ニ出戦ス、時ニ之カ司令官タルヲ嫌フ者多し、
P288
慶応二年七月、第二次長州征伐がおこるや時政亀蔵は一新組を率いて芸州口へ従軍している。『時政亀蔵覚書』には、
一 慶応弐寅ノ七月、佐野久淵両村屠卒二拾六人世話仕、御楯隊へ相属し芸地籠越、御楯隊より司令司(ママ)冷泉様諸共、戦争番兵共渇々相勤候事
とあり、『時政亀蔵家代々勤功録』には、
一 慶応弐寅ノ七月、佐野久淵屠卒三拾六人御楯隊へ御貸方相成、私儀も兼而過ル子ノ(元治元)八月より佐野久淵屠卒遣ひ方被仰付居候ニ付、御貸方御楯隊へ相属芸州へ罷越、戦争番兵共ニ渇々相勤候事
「二拾六人」というのは元文章のままです。
P292
この時の戦闘に関する御密用方宛木梨連報告書は、御楯隊の戦死者の氏名・位階を記入した後に「同隊 屠卒者壱人」と記している。この屠卒者とは一新組であることは言うまでもない。記載形式及び「屠卒」という表現に強い差別の存在を感じさせる(「四境役之際討死手負書取控」山口県文書館所蔵、毛利文庫)。
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5/29のエントリー「靖国神社は部落差別を行っている?」に関連したページへのリンクです。
A級戦犯合祀は自らやめるべきである (吉田望事務所)
コメント欄で靖国、A級戦犯、戦争責任などについて吉田氏と平山氏の議論に発展。お互いに知識の土台があるからこその議論ですね。私は指をくわえて読んでるだけです。私のエントリー内容とは違う話をされているのですが、きっかけになったので関連ページとして書き加えておきます。
靖国は部落差別を行っている話を書いたブログ主曰く(小さな魚と約束)
この屠卒うんぬん話を書いた一人が私のエントリーについて色々書いているのでそれについて
★5/29のエントリーについて取り上げてくださったサイト
書籍之海 漂流記
http://blog.goo.ne.jp/joseph_blog/e/e12733ddad8fae667562441b98210ce7
研究室日誌
http://d.hatena.ne.jp/hamano/20050622
川瀬のみやこ物語 episode2
http://takayak.moe-nifty.com/episode2/2005/04/post_b58a.html
Demilog@はてな
http://d.hatena.ne.jp/demian/20050617