A「○○○は部落差別を行っている」
B「それは誰がみたの?」
A「X君が言ってたよ」
B「X君がみたの?」
A「X君はY君が言ってたのをみたんだよ」
B「Y君がみたの?」
A「みたかどうかわかんない」
:
:
この「○○○は部落差別を行っている」を「○○○は部落民」と置き換えたらどうだろうか?
根本的に同じ発想からきているんだよな、こういうウワサの流し方って。
本人は差別するつもりはなかったというのもキマリ文句。(俺も言い訳として同じこと言うと思う)
「靖国神社は部落差別を行っている話」がネットで静かに流れている。ここ数日で加速している。
流れてる文章は以下の"()"、"{}"で説明するという特徴のある文字列
また「屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々も排除された。
■以下、時系列に流れを並べてみた
2001年 (8/6にアーカイブ記録あり)
ある方面で有名な、松山大学の田村譲教授のサイトにUP ・・・・(A)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yogokaisetyu.html
また「屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々も排除された。
↓
2001/08/15 (A)を転載
http://plaza.harmonix.ne.jp/~kurano/hennsyuusya/8gatu01.htm
↓
2001/09 靖国神社とは・・・・(A”)
http://www.kokuminrengo.net/2001/200109-demo-yskn2.htm
月刊『日本の進路』2001年9月号 自主・平和・民主のための広範な国民連合のHP。
◆靖国神社には、明治維新から日清戦争や日露戦争、そして太平洋戦争までの戦没者約二百四十六万人が祀られている。しかし、原爆の犠牲者や空襲で死んだ一般国民、天皇に刃向かった戊辰戦争での会津白虎隊や西南戦争の西郷隆盛は、合祀の対象から除外。また被差別部落の人びとも排除されるなど靖国神社は、死してなお差別している。
ソースはどこにもなし。著者名もなし。(A)の1ヶ月後(9月号だから実際は8月には執筆と思うが)
↓
2004 (01/10にアーカイブ記録あり) 同和問題の専門家の黒田伊彦氏のテキスト
「おかしい人」名誉毀損訴訟 陳述書 原告 黒田伊彦
http://www005.upp.so-net.ne.jp/noyasukuni/yasukuni/news10/02.htm
長州藩の大村益次郎は、長州藩や水戸藩など全国の105の官軍の戦死者を祀った招魂社を司ねる東京招魂社を、1869(明治2)年に、東京につくりましたが、その時も「但屠卒はこの限りではない」として、やはり被差別部落民を排除したのです。
このページでは2002/10/07の大学での同和教育論の授業で「奇兵隊」とその中の被差別部落民についての話として、
1)奇兵隊が祀られた山口県の桜山招魂社でエタ身分だった者を排除の話まで
2)東京招魂社(靖国)での排除の話
3)靖国は皇族だけは特別扱いしている差別の神社、としてテキストとして
(テキストは黒田伊彦著 部落問題、人権同和教育教材集85頁)とポインタが示されているが、このテキストが3)のみなのか1)から3)までなのか不明
↓
2004/04/15 2chに(A)からコピー
http://tmp2.2ch.net/test/read.cgi/asia/1080765340/501-600
キャッシュあり
実際に靖国神社では今でも被差別部落出身者は、例え英雄的に戦って戦死しても祀られないという規定があります
屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)はこの限りにあらず」として、
被差別部落の人々も排除された。
今でも?規定があります?
↓
04/04/21 ザ・掲示板 に (A)からコピー
http://66.102.7.104/search?q=cache:yvwzsSAPUHMJ:current.ten.thebbs.jp/1080087833/e100+%22%E5%B1%A0%E5%8D%92%22&hl=ja&lr=lang_ja
西郷隆盛も入ってないんですよ。
また、「屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々も排除されているのです。
↓
2005/02/23 出所わからず
http://homepage3.nifty.com/come_on-imaima-page/essei/22.htm
『門閥も周弊をあらため、しばらくエタの者を除くの外、士庶不問』
つまり非差別民軍隊は排除して祀るという事だ。
同じように東京の靖国神社も『屠卒はこの限りではない』として、排除してしまっている。
↓
2005/04/22 (A)を転載
http://plaza.rakuten.co.jp/foret/diary/200504220000/
↓
2005/4/30 吉田望氏のサイトにもっともらしい小論文・・・・(B)
http://www.nozomu.net/cgi-bin/webnote/thinking/26_index_msg.html
文章は参考資料とされている(A)の文章をそのままコピーしたもの
一方、天皇に刃向かった新鮮組はもちろん、維新の元勲(げんくん)・西南戦争の西郷隆盛や江藤新平、あるいは戊辰(ぼしん)戦争での徳川方(会津白虎隊)など国賊・反政府の烙印を押された人々は、合祀の対象から外されています。また戦死者のなかでも、「屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々は排除されています。
↓
2005/5/1 以下のブログに(A)が転載されたコメントがのる
http://takayak.moe-nifty.com/episode2/2005/04/post_b58a.html
ヤフーの「中国の反日デモ」というトピで下記のような書き込みを見ましたが、真実なのでしょうか?
<略>
差別的である靖国神社
2005/ 5/ 1 9:44
メッセージ: 27335 / 27725
投稿者: fastaskid (女性/京都府)
>この日本人についても
差別的である神社が本当に日本の首相が公式参拝すべき神社なのか?
なんと 驚きなのは!!
「また「屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々も排除された。」。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yogokaisetyu.html
名前: natunohi69 | May 1, 2005 09:42 PM
このnatunohi69というHNで(A)のサイトのBBSにも書き込みあり
↓
2005/5/24 (B)の吉田望氏ページから引用 ・・・・(C)
http://d.hatena.ne.jp/andy22/20050524#p4
また戦死者のなかでも、「屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々は排除されています。
この一点をもってしても、靖国をもって、わが日本の戦争被害者の追悼および鎮魂の施設だなどと認めることはできない。
↓
2005/5/26 (A)をリンクして
http://plaza.rakuten.co.jp/ryujisato/diary/200505260000/
ところが実際には「死者を差別する」のが靖国の実際だ。
以下の資料を読んでもらいたい。
靖国神社 (←hiepita注:ここに(A)がリンクされている)
西郷隆盛を合祀せず、被差別部落の人々を死してなお差別しているのに、小泉は「死んだら神様」のつもりなのか?
↓
2005/5/27 (C)をリンク
http://d.hatena.ne.jp/secseek/20050527
これでは、そもそも戦争への犠牲者に対する施設として落第でしょうね。
※注:secseekさんからTBと共にご指摘がありました。 一部引用しますと
できればリンク先をご覧になってください。このような内容になっているのですが、僕は屠卒の人々に関して言及した記憶はありません。僕はこれでは、そもそも戦争への犠牲者に対する施設として落第でしょうね。と書きました。これは屠卒の人々ではなく、沖縄戦や空襲、原爆での犠牲者が祀られていないことに対して述べたものです。
ということでした。
↓
2005/6/1 (A”)そして(A)から影響
仁なき詭弁家小泉純一郎首相 2005年6月1日 宇佐美 保
http://members.jcom.home.ne.jp/u33/i%20think%20050601jin%20naki%20kiben%20koizumi.htm
「自主・平和・民主のための広範な国民連合」のホームページでは、次の記述を目にします。
◆靖国神社には、明治維新から日清戦争や日露戦争、そして太平洋戦争までの戦没者約二百四十六万人が祀られている。しかし、原爆の犠牲者や空襲で死んだ一般国民、天皇に刃向かった戊辰戦争での会津白虎隊や西南戦争の西郷隆盛は、合祀の対象から除外。また被差別部落の人びとも排除されるなど靖国神社は、死してなお差別している。<略>
「被差別部落の人びとも排除されるなど靖国神社は、死してなお差別している」の件に関しては、私は、電話にて靖国神社に確認しましたが、応対してくださった方は“私の記憶ではそのようなことはない”と答えられました。
しかし、山中恒氏著『「靖国神社」問題:小学館発行』には次の記述があります。
大日本帝国では、すべての戦没者を平等に扱うのではなく、まず、戦没者名簿から靖国神社の神様に祀る者を選びだして、霊璽という特別の名簿を作ります。次に天皇が霊璽に記載されている者を靖国神社の神様に祀ってもよいと許可します(註=あるいは、「祀ってやれ」と命令すると書いてもよいかもしれません)。そこでようやく靖国神社に合祀されるのです。……
従いまして、靖国神社側が「被差別部落の人びとも排除」していなくても、靖国神社に回ってくる「霊璽という特別の名簿」の中から「大日本帝国(靖国神社を所管した陸海軍省)」が、「差別部落の人びと」を排除していたのかもしれません。
、、、と電話したあと否定されたので別の仮定をたてています。このページには「目次へ戻る」から目次ページへ飛ぶことができ、そこから
2004/12/11 文系の方々も「理」の心を(4)(靖国神社について)
http://members.jcom.home.ne.jp/u33/i%20think%200411117bunnkei%20ri-kokoro%204.htm
へ飛ぶことができます。そこに
ここで「天皇の人間宣言」に関して、次のホームページから引用させて頂きます。
(http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/ninngennsenngenn.htm)
と、(A)の松山大学の田村先生のHPから引用されておりました。ああ、見事に元につながりました。
↓
↓
2005/06/05 (コメントの日時からは5/26以前と思われる)
吉田望氏の(B)に文章を追加したエントリーが同氏のブログに
http://www.nozomu.net/journal/000150.php
一方、天皇に刃向かった新鮮組はもちろん、維新の元勲(げんくん)・西南戦争の西郷隆盛や江藤新平、あるいは戊辰(ぼしん)戦争での徳川方(会津白虎隊)など国賊・反政府の烙印を押された人々は、合祀の対象から外されています。
明治の元勲で靖国神社に祭られていない最大の大物に「維新の三傑」の大久保利通がいます。大久保の明治建国に対する貢献は尋常ではありません。
<中略 hiepita>
また戦死者のなかでも、「屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々は当初排除されています。
”当初”が追加されている。何か新しい情報があったのだろうか?
資料として新たに 「おかしい人」名誉毀損訴訟 陳述書 が書かれているが、(B)で資料とされていた(A)へのリンクはない
↓
↓
2005/6/13 靖国と部落差別との関連について、他サイトと共に当ブログが紹介
http://blog.livedoor.jp/planet_knsd/archives/24742012.html
↓
2005/6/16 [教えて!goo] で当ブログがとりあげられる。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1453584
↓
2005作家 青木新門さんのHPにあるページ
「靖国問題」の根っこにあるもの
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shinmon/news.htm
少なくとも去年の11月にはなかったページなので今年あたりにできたページなのだろう。
しかし同じ戦場で戦っても国賊、反政府の烙印をおされた西郷隆盛のような人は合祀されない。この神社の由来やその名が示すとおり、錦の御旗、すなわち「君が代」に象徴される国体護持の為に戦った死者の霊魂を呼び寄せた招魂の社(やしろ)である。また、屠卒(牛や豚などの屠殺を職業としている者)などの雑兵の戦死者は、被差別部落の出身ということで合祀されていないという。
と現在なっているが、つい先日2005/7/11ではこうなってなかった。
また、兵馬などの世話に動員させられた屠卒などの雑兵の戦死者は、被差別部落の出身ということで合祀されていない。
と書かれていた。平山先生のお力でわかった屠卒について書かれている唯一の本といえば布引本しかなく、そこには幕末の戦争時に「兵馬などの世話に動員させられた」などという記述はない。これは新しい資料があるのかとさっそく青木新門さんに「別に文献があるのでしたらご教授願えないでしょうか?」とメールした。
翌日、このページは上記のように
また、屠卒(牛や豚などの屠殺を職業としている者)などの雑兵の戦死者は、被差別部落の出身ということで合祀されていないという。
に書き直された。
そして書き直しがあったにもかかわらず私には返事のメールはまだ届いてない。
このままうやむやにするつもりなのだろうか。プロフィールを観る限りかなりの年配の方である。
しかし、このページの編集が返答の代わりとするというのであれば、現在のところ疑問を指摘せずにはおれない。
屠卒が(牛や豚などの屠殺を職業としている者)という時代不明の定義は何を根拠に生まれたものか?
結局のところ、何度もでてくる松山大学の田村先生のHPからコピーしただけではないのか。
追記:
7/12にメールをいただく。「本名を明示されない方には返信しないことにしていますので、あしからず」と。ごもっともです。そして現在は次のように修正されている。参考資料は不明のまま。
また、屠卒などの雑兵の戦死者は、被差別部落の出身ということで合祀されていないという。
兵馬がどうのというのは無かったことになったが本名を送ったら教えてくれるのだろうか?
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
5/29
しばらく何もなかったのに、どうも、この一ヶ月で急激に
また「屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々も排除された。
の文字列が流れていっているようだ。
そしてそれが「いつの戦死者のことか」「今でもなのか」「太平洋戦争の戦没者は被差別部落の人々は含まれていないのか?」「どこの誰が屠刹はこの限りにあらずと宣言したのか」などあやふやにしたまま、流れていっている。ブログなどに書かれると簡単に「靖国はそんなところだったのか」とかコメントやTBしてる人もいたりして。
次はどこからどこがリンクして引用やらコピーされていくのだろうか?
県立図書館で靖国神社参拝に批判的な本、部落差別問題に取り組んでいる本(解放新聞とかが出してるのとか)
などを二日間、調べたが、まったくそのような話に出会わなかった。時間に限りがあるため、
「屠卒」という単語に絞って調べることにした。大辞林(国語)、字源(漢和)、古語辞典と大きな辞書ではなかった。
ようするに辞書に載せられない差別語ということかと部落史用語辞典 小林 茂 他(編集)、、これメモ間違いかもしれないので後日訂正するかもしれません、、、で歴史の中で差別語とされたもの(放送禁止用語ではない)を調べてみたが、まったく載ってなかった。
もうそのときに古文献をひもとけという話になるのかもしれない。
てっとりばやいのは田村教授への問い合わせだろう。
現在、メールで以上の状況を問い合わせたところ
靖國神社崇敬奉賛会事務局さまから靖国神社の広報課にて調べてくださるとのこと。
お返事があるにしても時間がかかりそうとのことです。そりゃそうでしょ、宗教法人が部落差別してるなんてことが事実なら大事だし(仏教界でもあれだけのことになったんだから)、事実無根なら悪質なデマということに
なりますから。返事は時間がかかりそうだ。
田村教授への問い合わせはまだしてません。
解放運動に取り組んでおられるところにも問い合わせはしてません。
■結論
コメントを寄せていただいた平山様が詳細に文献を調べてくださり、ほぼ謎が解けた状態です。
ぜひ、コメント欄をごらんください
■追記 05/6/24
このエントリーのメインの内容は、ある文字列が数年間根拠がよくわからないままネット上でコピーされて流れていく事例を時系列にURLを並べて追ってみただけのものでした。
そこにコメントとして根拠の真相を追求した詳しい調査がよせられるという予想外の嬉しい出来事がおこり、充実したエントリーとなりました。
上記の構成に絞ったほうが良いと考え、靖国神社問題、部落差別問題そのものの是非についてはこのエントリーではできるだけ触れないようにしています。書きたい場合は他のエントリーなどでやることにしています。(当初は色々書いていたのですが書き直しました)
さて、6/17の平山洋様が見事に簡潔にまとめられたコメントを読むだけでもう充分なのですが、教えていただいた出典と思われる
布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』(三一書房1980年)を私も県立図書館で借りてきました。
平山様ご指摘の「屠卒はこの限りでない」について書かれているページとその他にも「屠卒」という単語が記述されているページがありますが、古本でも入手困難な状況であるらしいのと、著者には申し訳ないのですがわざわざ入手する方も少ないかと思いますので、もう少し内容を紹介したいと思います。
できたら本エントリーに書きたかったのですが、長文は読むほうも辛いので別エントリーに書きます。
おまけみたいなものなので読まれたい方だけどうぞ。
というわけで 布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』の内容↓
続編:布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』にあった「屠卒はこの限りではない」という文字列
平山様が「コメントで靖国神社は部落差別をしている、とはいえない」と書かれていますが、同書において布引氏は靖国神社に合祀されていないことは明らかな差別と何度か書いています。ただ、布引氏は靖国神社「が」差別しているとは書いていません。ここらあたりは同書(できれば入手して)と平山様のコメントなどを読んでご判断ください。
おまけ:『討奸檄』の内容
「暫く穢多之者を除之外」がこれで述べられているのですが、攘夷のための軍隊編成の心積もりであって、招魂場とは無関係であることがこれでわかる。
コメント
この記事へのコメント
近代日本思想史を研究している者です。
ここに書かれていることが真実ならば由々しいことと思い、松山大学の田村譲教授のHPで確認したところ、問題の一節は、高杉晋作が慶應元年(1865年)8月6日に建てた下関「桜山招魂社」での合祀基準であることが分かりました。
しかも高杉は、被差別部落出身者への偏見が無くなるまでの当座の処置として、合祀を見合わせたようです。
問題の一節は、「東京招魂社」や「靖国神社」とは無関係でした。
2005/06/06(月) 18:07 | URL | 平山 洋 #79D/WHSg[ 編集]
平山様、貴重な情報ありがとうございます。
田村教授のHP http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yogokaisetyu.html では、高杉晋作の{注3}の説明で、招魂場を設けて奇兵隊を祀ったとあり(現在の山口県桜山神社)、このとき「穢多除之外」の言葉が使われたとしています。
平山様がご確認されたのはこのことではないでしょうか?
田村教授のHPの文章では、同じ思考で作られたであろう明治2年の東京招魂社(靖国)の説明で使われている言葉が「屠卒はこの限りにあらず」で、被差別部落者を排除としてあります。桜山に続いて靖国でも同じことをしているとなります。
つまり、田村教授のHPでは問題の一節は桜山ではなく靖国そのものの説明なのです。
いかがでしょうか?
2005/06/06(月) 23:22 | URL | hiepita #79D/WHSg[ 編集]
ご指摘ありがとうございます。
ご拝察の通り、私は、田村教授HPの地の文「屠卒はこの限りにあらず」の典拠となりそうな部分が注にありはしないかと思って、{注3}の高杉による「穢多除之外」に行き当たったのでした。
田村教授の「屠卒」云々の部分は、大変重要な指摘であることが明白であるにもかかわらず、具体的な典拠が示されていない、という致命的なミスをおかしておりますね。
これほどのことがなぜ2001年まで看過されてきたのか、大きな興味があります。
hiepitaさんはもちろんお調べになったとは思いますが、岩波書店の日本近代思想体系第4巻「軍隊・兵士」中「靖国神社の創建」の章にも、また、第22巻「差別の諸相」中「被差別部落民」の章にも、「屠卒」差別については触れられておりません。
いったいどういうことなのでしょうか?
2005/06/07(火) 08:23 | URL | 平山 洋 #79D/WHSg[ 編集]
午前中に大学図書館で「屠卒」の典拠について調べてみました。
高杉晋作の前例からいって、合祀の名簿作成に当たっての通達の一部ではないかと考え、高原正作著『靖国神社の歴史、附招魂社沿革大要』(同神社社務所1944)と、『靖国神社略年表』(同神社社務所1973)を調べました。すると戊辰戦役の戦死者名簿を神祇官に提出せよとの通達が、慶應4年5月24日、明治元年11月3日、11月8日、明治2年6月10日の4回出されていることが分かりました。
この4回について、『太政官日誌』で確認したところ、前の3回については、単に名簿を提出せよ、とあるだけで、合祀者の身分については特に制限はありませんでした。6月10日の達は見つけられなかったので、「屠卒」云々のことはここに記載されているのかもしれません。
そこで視点を変えて、部落史のほうにヒントがあるかもしれないと思って、大江甚三郎編『同和文献大鑑』(同保存会1984)にあたると、巻末の「同和年表」の、慶應2年4月のところに、長州奇兵隊中の屠勇隊活躍す、という記述を見つけました。
高杉が触れていた「穢多」とは彼らのことにちがいない、と今度は『奇兵隊日誌』(東大出版1971)を見ると、第4巻巻末の諸隊一覧表に、慶應2年春編成の「山代茶洗組」というのがあるのを発見しました。その説明には、「茶洗ハ非人穢多ノ種類ナリ。人員44人ヲ以テ組織セリ。四境戦争ノ際芸州口ニ戦フ」とありました。
「山代茶洗組」と「屠勇隊」は同じ部隊でしょう。どうやら第二次征長の役のときに長州防衛のために編成されたもようです。
この時の長州側の戦死者は靖国神社に合祀されているので、その中に「山代茶洗組」または「屠勇隊」所属の名前が見つかれば、最終的には差別が解消されていることになります。
『靖国神社忠魂史』(同神社編1933~35)には、その時点で合祀されているすべての方々の名前が記載されているので、調べてみると、慶應2年6月から戦争が終結した10月までの、芸州口方面の戦死者は、67名でした(第1巻167頁)。所属隊名に「山代茶洗組」「屠勇隊」はなく、この隊からの戦死者は排除されている可能性があります。
いっぽう、67名中27名には所属隊名の記載がなく、この27名の中に、「山代茶洗組」「屠勇隊」の隊員が含まれている可能性もあります。とりわけ6月11日戦死の「磯右エ門」、10月戦死の「嘉助」には、身分や姓の記載もなく、彼らが同隊所属の戦死者なのかもしれません。
いずれにせよ、「屠卒」云々の典拠が明らかになるまで、問題の解決はつかないようです。
2005/06/07(火) 13:55 | URL | 平山 洋 #79D/WHSg[ 編集]
平山様。貴重なご助言ありがとうございます。
私は専門でも何でもないので用事があった県立図書館の本棚などで調べるぐらいのことしかしてないのですが、岩波書店の日本近代思想体系など教えていただきありがとうございます。西日本の県立図書館なので関西の部落史などについてはそれなりにすぐ目に触れる棚に揃っているのですが、教えていただいた文献については窓口で請求する必要があるのかもしれません。
平山様がお調べになった、「山代茶洗組」「屠勇隊」ですが、田村教授のページには、「屠勇取建方引受」「一新組」「茶笑隊」などの似た言葉があり、確実な資料があるのだと思いますが、{注3}以外の{注}については明示してある参考文献名が書かれていないのが不親切かなと。
一般の辞書はもちろん、部落史の用語辞典でも見つけることができなかった「屠卒」というかなり”特殊”な言葉の出所が気になるところです。
田村教授に聞けばいいわけですが、ある程度は調べておきたいと思います。
靖国神社の崇敬奉賛会事務局から広報課へ問い合わせを廻してもらってますがまだお返事をいただいておりません。問い合わせ内容の性格からしてあまり期待しないほうがいいかもと考えています。
2005/06/07(火) 15:11 | URL | hiepita #79D/WHSg[ 編集]
ネットでは萩商工会議所のHPの「幕末長州藩諸隊・家臣団隊・農(商)兵隊等一覧」
http://www.joho-yamaguchi.or.jp/hagi-cci/
に被差別部落民として、維新団、山代茶洗組、上関茶洗隊、一新組の名前がありました。
2005/06/07(火) 15:21 | URL | hiepita #79D/WHSg[ 編集]
「屠卒」の典拠を調査している過程で、たった一つだけ田村教授のHPを源流とするのではない使用例を発見しましたので、途中経過ではありますが、ご報告いたします。
それはヤフー検索によって選び出されたもので、「「おかしい人」名誉毀損訴訟 陳述書 原告 黒田伊彦」(2002年)の一節です(すぐに見つけ出せると思います)。
当該部分を引用します。「長州藩の大村益次郎は、長州藩や水戸藩など全国の105の官軍の戦死者を祀った招魂社を司ねる東京招魂社を、1869(明治2)年に、東京につくりましたが、その時も「但屠卒はこの限りではない」として、やはり被差別部落民を排除したのです。」
こうしてみると「屠卒」の典拠は、大村益次郎による何らかの文書または書簡であるようですが、勤務校の図書館にある数冊の大村益次郎の伝記では、当該の用語は言及されておりませんでした。
2005/06/09(木) 17:13 | URL | 平山 洋 #79D/WHSg[ 編集]
ありがとうございます。Yahoo検索ですぐわかりました。(やはりGoogle最強ではないんですね)
黒田さんという方は靖国と差別問題についてはご専門のようですし、一般著書もあるようですので、私でも調べられるかもしれません。(本屋にはなかなか置いてなさそうですが)
大学の講義で使われたテキストがあるようですがさすがに取り寄せることまではする気がないです。
気になったのは
「但屠卒はこの限りではない」として、やはり被差別部落民を排除したのです。」という後半のフレーズが同じということですね。
どこか共通なものがあるのでしょうが。
2005/06/09(木) 20:45 | URL | hiepita #79D/WHSg[ 編集]
「屠卒」の典拠を探るため、大学の隣にある県立図書館に行ってきました。結論から先にいえば、やはりつきとめることはできませんでした。
最初に、田中惣五郎著『近代軍制の創始者・大村益次郎』(1938年)に当たりましたが、「東京招魂社」設立に果たした役割に軽く触れているだけで、当該問題については何の言及もありませんでした。
ついで、『靖国神社百年史』全4巻(1983~87)を調べましたが、やはり「屠卒」の文字には行き当たりませんでした。
そこで、同和関係の文献に手がかりがあるかもしれない、と考え、『部落問題・人権事典』(2001年)を調査しましたが、「屠卒」はおろか「靖国神社」も立項されてはいませんでした。ただ、屠勇隊の一部であったらしい「維新団」は独自の項となっていて、第二次征長のときの同隊について、「戦死者が数名でたが、招魂社にまつられた形跡はない」(同署68頁、布引敏雄)とありました。
田村教授が注記された、桜山招魂場に被差別部落民は合祀されなかった、との記述と同じ内容の記事ですが、問題は、その後の靖国神社への合祀でも被差別部落民は排除されたかどうか、です。
その点については、上記6月7日の調査で述べましたように、どちらともとれる、と言うしかありません。はっきりさせるためには、屠勇隊所属兵士の戦死者名簿と靖国神社の合祀者名簿を付き合わせるしかないでしょう。
なお、ネットで密かに流布している「うわさ」のような文字列では、1879年の靖国神社創建後まで、そうした合祀差別があったかのような引用のされ方がなされていますが、その可能性は限りなく低いでしょう。現に1932年1月の上海事変で戦死された、「肉弾三勇士」の中には、被差別部落の出身者がいたそうですが、何の問題もなく合祀され、顕彰されています。
また、それより先の1927年11月に、軍隊内部での差別を天皇に直訴した北原泰作二等卒の事件でも、靖国神社への合祀差別などにはまったく触れていません。日清・日露戦争より後ですから、もし合祀自体への差別があったとしたら、北原がそれに言及しなかったはずはないでしょう。
2005/06/10(金) 12:26 | URL | 平山 洋 #79D/WHSg[ 編集]
「屠卒」の典拠を探るため、大学の隣にある県立図書館に行ってきました。結論から先にいえば、やはりつきとめることはできませんでした。
最初に、田中惣五郎著『近代軍制の創始者・大村益次郎』(1938年)に当たりましたが、「東京招魂社」設立に果たした役割に軽く触れているだけで、当該問題については何の言及もありませんでした。
ついで、『靖国神社百年史』全4巻(1983~87)を調べましたが、やはり「屠卒」の文字には行き当たりませんでした。
そこで、同和関係の文献に手がかりがあるかもしれない、と考え、『部落問題・人権事典』(2001年)を調査しましたが、「屠卒」はおろか「靖国神社」も立項されてはいませんでした。ただ、屠勇隊の一部であったらしい「維新団」は独自の項となっていて、第二次征長のときの同隊について、「戦死者が数名でたが、招魂社にまつられた形跡はない」(同署68頁、布引敏雄)とありました。
田村教授が注記された、桜山招魂場に被差別部落民は合祀されなかった、との記述と同じ内容の記事ですが、問題は、その後の靖国神社への合祀でも被差別部落民は排除されたかどうか、です。
その点については、上記6月7日の調査で述べましたように、どちらともとれる、と言うしかありません。はっきりさせるためには、屠勇隊所属兵士の戦死者名簿と靖国神社の合祀者名簿を付き合わせるしかないでしょう。
なお、ネットで密かに流布している「うわさ」のような文字列では、1879年の靖国神社創建後まで、そうした合祀差別があったかのような引用のされ方がなされていますが、その可能性は限りなく低いでしょう。現に1932年1月の上海事変で戦死された、「肉弾三勇士」の中には、被差別部落の出身者がいたそうですが、何の問題もなく合祀され、顕彰されています。
また、それより先の1927年11月に、軍隊内部での差別を天皇に直訴した北原泰作二等卒の事件でも、靖国神社への合祀差別などにはまったく触れていません。日清・日露戦争より後ですから、もし合祀自体への差別があったとしたら、北原がそれに言及しなかったはずはないでしょう。
2005/06/10(金) 12:26 | URL | 平山 洋 #79D/WHSg[ 編集]
エントリーについていくつか編集して言及サイトについて追加しました。
最後のブログを見ると調べようとされている方がいらっしゃいます。
2005/06/14(火) 00:58 | URL | hiepita #79D/WHSg[ 編集]
hiepitaさま、貴重な情報ありがとうございました。
国定陽一さまのブログも参照し、また書き込みもしてきました。
さて、私自身の調査ですが、黒田伊彦氏の「陳述書」から、「屠卒」は大村益次郎に由来する、と推測し、古本で内田伸編『大村益次郎文書』(マツノ書店1977年)を入手して調べてみました。
この本に収められている、大村の自筆書簡33通と、来翰433通は、山口にある大村旧宅の、ふすまの下張りから発見されたもので、公的な用向きのものは、ほとんどありません。
ともかく全部を見てみましたが、招魂祭のための戦死者名簿に関する書簡は、発見できませんでした。また、第二次征長の時の書簡はありましたが、屠勇隊などへの言及はないようです。
というわけで、大村益次郎の方向からの追究は、頓挫しております。
それとは別に、「屠卒」につながる言葉はないか、とネット検索したところ、明治5年8月25日改定の「海軍武官官階」に、「五等卒海軍屠夫」なる階級があるのを見つけました。最下級の水兵相当官のようです。
この「海軍屠夫」は、明治18年1月31日改定の「海軍武官官階及海軍卒職階」にまで見られ、次の明治18年6月20日改正の分では、廃止されて、「海軍主厨」に属するようになったもようです。
つまり、明治5年(1872年)から、明治18年(1885年)まで、「海軍屠夫」なる海軍武官が存在した、ということです。
そこで、この期間の靖国神社への合祀者を、『靖国神社忠魂史』で調べたところ、当該階級の合祀者は、見当たりませんでした。
とはいえ、この期間の海軍の戦死者はきわめて少数であるうえ、「海軍屠夫」は、職務上、海軍基地での給食に関係する者、と考えられるため、なおさら戦死する可能性は低かったでしょう。たとえ合祀者がいないとしても、それをもって差別があったことの、証明にはならないのは、言うまでもないことです。
2005/06/14(火) 08:26 | URL | 平山 洋 #79D/WHSg[ 編集]
参考にさせていただいております。
2005/06/17(金) 09:40 | URL | bold #79D/WHSg[ 編集]
とうとう「屠卒」の出典を確認することができました。布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』(三一書房1980年)です。
田村氏・黒田氏が参考にされたと思われる部分は、以下の通り。
「幕末の戦争で死亡した人々は、ほとんどが招魂場に祭られることとなったが、一新組の戦死者の場合はどうであったか。御楯隊の戦死者は防府桑ノ山の招魂場に祭られることとなったが、『尊攘事跡列伝』(山口県文書館所蔵。毛利文庫)中に見える御楯隊戦死者の記事を拾うと、(慶應二年1866年)七月二八日大野の戦闘で死んだ入江信之の記事中に、(中略・「一般の兵は招魂場に送る」が)「但屠卒不在此例」とあって、招魂場に送埋することは以下同じであるが、屠卒はこの限りではないとしている。」(同書289ページ)
この引用から分かったことは、「屠卒」云々は、大村益次郎の「東京招魂社」ではなく、長州藩「桑ノ山招魂場」に関する未公刊の史料に基づいていた、ということです。
どおりで大村益次郎関係の文書をいくらあさっても、問題の表現に行き当たらなかったわけです。田村氏も黒田氏も、そもそも史料を読み間違えていたのですから。
さらに、田村氏HPの{注3}「暫く穢多之者を除之外」という高杉晋作の発言にも、見過ごすことのできないミスリードがあることが分かりました。
というのは、この一節は、高杉の「討奸檄」からとられているのですが、それは、庶民軍の創設を進言するものであって、「桜山招魂場」とは無関係なのです。{注3}では、あたかも、エタ身分の者を招魂場で祭るべきではない、と高杉が言っているようかのようになっていますが、じつは高杉は、当分の間はエタ身分の者を庶民軍に入れるべきではない、と発言していたにすぎないのです(布引著書270ページ)。意図的な操作だとしたら、相当に悪質な引用といえましょう。
ともかく、「うわさ」のもとになっていた二つの引用は、いずれも「東京招魂社」(「靖国神社」)とは無関係ということがはっきりしました。
とはいえ、「靖国神社は部落差別をしているのか?」という本当の問題そのものが解決できたわけではありません。そのことについては、次の「コメント」でまとめたいと思います。
2005/06/17(金) 12:48 | URL | 平山 洋 #79D/WHSg[ 編集]
この一説を引用したものとして、このサイトの議論を興味深く拝読させていただいております。
長州藩「桑ノ山招魂場」については、1887(明治20)年ごろから靖国神社に合祀された、と理解しています。
水平社の活動の相当以前のこの時代に、桑ノ山招魂場に祀られなかった「屠卒」を東京の地で再び祀る動機、制度、風習が靖国や明治国家にあったのかどうか。かなり難しいのではないでしょうか。
しかし靖国自身がその差別を認識していた(仕組みがあった)のかどうか、も、同時に大いに疑問であります。
2005/06/17(金) 14:01 | URL | bold #79D/WHSg[ 編集]
「靖国神社は部落差別をしているのか?」-暫定的解決-
そもそもこの「うわさ」は、松山大学田村譲教授のホームページ(2001年)に掲げられた、「また「屠卒はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々も排除された。」という一文が、典拠の示されぬまま、一人歩きしてしまったために、広まったものでした。
靖国神社への合祀者の選定については、とりわけ明治維新より前の、近代日本軍以前については、かなりあいまいな部分があります。また、明治以後についても、西郷隆盛は西南戦争(1877年)で賊軍であったから仕方ないとはいえ、いわゆる「八甲田山死の行軍」(1902年)で亡くなった199人も合祀されていない(平和時の訓練死である、との理由)、となると、もしや被差別部落民差別もあるのでは、という疑いが生じてしまうのも、無理のないことです。
とはいえ、私が行ったここまでの調査をまとめるならば、明治4年(1871年)8月の「解放令」以後において、近代日本軍の出動に伴って生じた戦死者等の東京招魂社(靖国神社)への合祀に関し、部落差別をうかがわせる証拠は、いっさい見つけることはできませんでした。
北原泰作二等卒が糾弾したような部隊(あるいは艦)内差別は、残念なことではありますが、あったかもしれません。しかしそれは、制度上の差別ではなく、あくまで個別の人間関係のうえのことであったようです。軍隊内の制度上の差別についての、「部落史」や「同和問題」に関する先行研究がほとんどないことも、このことをある程度証明していると思います。
では、靖国神社には、本来なら合祀される資格を有していながら、げんに合祀されていない被差別部落民は一人もいないのか? と問われるならば、それはまた残念ながら、否、というしかありません。
「解放令」以前の、前近代的身分制下で組織された長州藩の庶民軍部隊所属の戦死者には、藩内の「招魂場」への合祀差別がありました。前掲布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』には、次のようにあります。
「これ(『慶應弐年四境戦役戦傷病死者名簿』・山口県文書館所蔵。県庁記録)によると、山代の茶筅は姓名もわかり、招魂場にも埋葬されているのに比して、維新団・一新組の者は、姓名もわからず、招魂場にも埋葬されていないのである。これは茶筅とえたの差別の深浅を示すものであるが、さらには維新団・一新組の者らは靖国神社にも合祀されない事を意味している。」(同書290ページ)
私は、この本のこの部分を読むまで、長州藩内で編成された被差別部落民による部隊、屠勇隊・茶筅組・維新団・一新組などは、みな並列的に、それぞれは平等に扱われた、と考えていました。ところが、そうではなかったのです。つまり被差別民相互にもさらに階層的な上下関係があって、茶筅組の戦死者は招魂場に合祀され、エタ身分の戦死者は、戦死者名簿にも掲載されず、したがって合祀されない、という差別があったのです。
布引著作290ページには、茶筅組の戦死者として、「仲田清太郎」と「仲田国助」の2名(いずれも慶應2年7月27日戦死)が挙げられています。『靖国神社忠魂史』(第1巻167ページ)にあたってみると、確かにこの両名は合祀されております。(6月7日付本欄で可能性として述べた、「磯右エ門」と「嘉助」ではありませんでした。)ただしこの両名にも所属隊名は記載されていません。
いっぽうエタ身分であったらしい、維新団の「才吉」(例外的に名前が判明・6月19日行方不明)と、一新組の「屠卒某」(8月7日戦傷死)は、『靖国神社忠魂史』の同じページに、名前や当てはまる人物を見出すことはできませんでした。
以上をまとめると、長州藩において、維新以前のエタ身分の戦死者は、戦死者名簿に記載されなかったため、同藩招魂場に合祀されなかった。その後の東京招魂社や、後身の靖国神社にも合祀されていない、ということになります。
なお、注意しなければならないのは、現在の靖国神社に維新前のエタ身分の戦死者が合祀されていないとしても、そのことをもって、靖国神社は部落差別をしている、とはいえない、ということです。それというのも、靖国神社側に合祀者を選別する権限はなく、戦前は陸海軍省が選定し、戦後は厚生省(厚生労働省)が戦争による公務死として認定した方が、無条件で合祀されているからです。本来なら合祀されるべきエタ身分の戦死者が、靖国に依然として合祀されていないのは、選定する側(旧長州藩)に問題があったから、ということができるのです。
従いまして、直前に投稿されましたboldさまのコメントは、妥当である、と考えております。
2005/06/17(金) 14:59 | URL | 平山 洋 #79D/WHSg[ 編集]
拝読させていただきました。ネットにおいてこのような研究調査、意見交換が可能なのはまったくすばらしいことと思います。
2005/06/17(金) 15:25 | URL | bold #79D/WHSg[ 編集]
靖国とまったく離れてしまいますが、長州藩における被差別の構造に関する興味深い考察をみつけました。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2005/06/post_ea1b.html
靖国に戻って。考えてみると差別開放の太政官布告が明治四年。国全体が差別を撤廃する以前の措置を現在の常識で図ることは、意味がないことかもしれません・・・
2005/06/17(金) 16:58 | URL | bold #79D/WHSg[ 編集]
この10日ほど「屠卒」の調査にかかりきりだったので、本来の自分の研究(福沢諭吉について)が、すっかりおろそかになってしまいました。
2005/06/17(金) 17:06 | URL | 平山 洋 #79D/WHSg[ 編集]
靖国とまったく離れてしまいますが、長州藩における被差別の構造に関する興味深い考察をみつけました。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2005/06/post_ea1b.html
靖国に戻って。考えてみると太政官布告が明治四年。国全体が差別を撤廃する以前の措置を現在の常識で図ることは、意味がないことかもしれません・・・
2005/06/17(金) 17:07 | URL | bold #79D/WHSg[ 編集]
平山様、調査とまとめのコメント、ありがとうございました。
お忙しい中、貴重な時間と労力を割いていただき、今の私は夏休みの工作の宿題を親にやってもらった小学生状態です。管理人としてはまとめないといけないのですが、これ以上まとめようがありません。
大村益次郎文書を古本で入手されての調査には頭を上げることができません。
「屠卒」の出典について確認された件には驚きました。
時刻的に昨日になりましたが、県立図書館で、小林茂「部落史用語辞典」(柏書房)で相当する用語がないか調べておりました。「屠卒」については結局わからず、長州の「屠勇隊」、「維新団」、また中国地方に分布する被差別民を差す「茶筅」などの項目を読みました。茶筅とえたとの上下関係あたりの争いにも触れられていました。茶筅はえたの支配下かどうかの争いがあったとのこと。
参考文献として
布引敏雄「幕末長州藩被差別部落民緒隊の活動」(「日本史研究」112 1970)
布引敏雄「長州藩部落解放史研究」(三一書房1980年)
小林茂「部落「解放令」の研究」(解放出版社 1979)
としてあったので「長州藩部落解放史研究」「部落「解放令」の研究」の2冊を書庫から出してもらい読んでいたのですが、うかつにも気づきませんでした。
小林茂の本で私は高杉晋作が「討奸檄」で奇兵隊をぶちあげるときに「暫く穢非を除くの他、士庶を問わず」といっているのを知りました。それで田村教授のHPの{注3}の
1867(慶応3)年に病死した高杉晋作は、桜山に招魂場を設け、奇兵隊たちを祀ったが、彼はまた「門閥の習弊)を矯め、暫く穢多之者を除之外 士庶不問」との指示により被差別部落出身の諸隊の戦死者を排除したのである
この文章では平山様のご指摘の通り
奇兵隊がつくられるときに「暫く穢多之者を除之外」だったのが、
桜山招魂場で奇兵隊たちを祀るときに「暫く穢多之者を除之外」という指示があったことになってます。うーむ。
以上は「私も役に立とうとがんばってたんだい」が言いたくて長々と書いてしまいました。
読んでた本の何ページかめくれば「屠卒」が出てたとは、、、、
部落差別問題は昔から今現在も追求されつづけている問題ということをほんの少し改めて認識し、わかったようなことは書くことはひかえますが、とりあえず
「靖国神社が部落差別をしているのか?」については
>「屠卒はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々も排除された。
この文字列だけでは誤解しか生まないでしょう。
実際、無抵抗に信じこんでる人も結構いるみたいだし。怖いなー
このままネットでコピーされていくと、都市伝説、ネット伝説のできあがりです。
できたら、できるだけ誤解の生まない情報と共に流布していってもらいたいものです。
2005/06/18(土) 01:32 | URL | hiepita #79D/WHSg[ 編集]
hiepita様 平山様 ご案内ありがとうございます。お二人の真摯な対話に深く敬意を表します。平山さんの精緻な調査に頭が下がります。私も、ここで議論されたことを踏まえ、この問題を調査・検証してみたく思います。このようなかたちで情報が公開され、知が共有されることを私は意義あることと考えます。
2005/06/19(日) 08:22 | URL | 國貞陽一 #79D/WHSg[ 編集]
平山様、bold様、國貞様、コメントありがとうございます。
今、エントリーの最後の文章で「ほぼ謎が溶けた状態です。」と書いていたのを「解けた」と訂正したところです。溶けてどうする、、、
本日、平山様ご指摘の布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』を図書館で借りてきました。
屠卒の件についてのそのものズバリの文章を確認しました。
確かに出典はこれであろうと思われました。
明日以降になりますが、エントリーのほうにも自分なりに書きたいと思います。
2005/06/21(火) 23:24 | URL | hiepita #79D/WHSg[ 編集]
布引氏の著書を読んでいて、一つだけ疑問が。
「長州藩部落解放史研究」では桑ノ山招魂場に祀られたときの話しかなく、桜山については触れられていません。
田村氏、黒田氏のページでは桜山招魂場に祀られる時に排除と記述されていますから、「長州藩部落解放史研究」だけをソースに書いたわけでもなさそうです。
桜山招魂場での排除に関する別資料があるのか、奇兵隊といえば桜山という常識からきているのかわかりませんが。
ただ、それ以上追求しても仕方ないと思いますので、この件については指摘だけにとどめたいと思います。
2005/06/22(水) 10:45 | URL | hiepita #79D/WHSg[ 編集]
遅くなりましたが、
布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』を読んだ上でのまとめというか引用の羅列のエントリーを別につくりました。本エントリーの最後に続編としてURLを書いてあります。
私としては噂話の流れを知りたいというわけで、重箱をの隅をつついたような話を付け加えさせてもらいました。本質とはずれてますのでこの話はほぼ収束していると考えてはいますけれども。
2005/06/25(土) 04:08 | URL | hiepita #79D/WHSg[ 編集]
hiepitaさま
お久しぶりです。いかがお過ごしでしょうか。
拙著をお取り上げいただいたご縁から、Apemanさんのブログ「Apes! Not Monkeys!」のエントリ「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」(http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1172174836/E2037162868/)のコメント欄および同ブログ掲示板で、「日清戦争は日本として正当化できるか」に関し、小さな論争を行っています。
ご訪問くだされば幸いです。
2005/09/12(月) 16:13 | URL | 平山 洋 #79D/WHSg[ 編集]
福岡出身の杉山元は、なぜ靖国神社に祀られていないのでしょう。また、無能扱いされているのは、本当でしょうか。それで除外されているのですか。しかし、福岡出身なのに、お墓が多磨霊園にあるのはなぜでしょう?不思議です。ご存知のかた教えてください。
2005/10/18(火) 19:09 | URL | 阿久津 #79D/WHSg[ 編集]
杉山元元帥は合祀されております。出身地以外の場所に埋葬されるのは、とくに珍しいことではないでしょう。
2005/10/22(土) 19:17 | URL | 平山 洋 #79D/WHSg[ 編集]
そうでしたか。何も知らず失礼いたしました。
多くの方がそうらしいのですが、現代史は、受験体制の中学、高校で勉強をしてきた場合、
あまり、試験に出ないとか、あるいは、期末で時間がないから、読んでおいてくださいみたいな形で、皆、詳しく、正しく学習を受けていないのが実情ではないのでしょうか。それで、私のように、よく知らないものがいるのです。
また、特に興味がなくば、皆、知識を得ようとはしないで、皆知らずに過ごしているのです。
それは、悪いことではないし、また、それで、無知ゆえに、誰かを傷つけたとしても、それは、教育を正しく受けていないからで、その人のせいばかりではないのです。
教育、このことが、人の人間性と人格も形成するのですが、それは、人が、教育を受けたあとも、自己修行により、精進していくべきなのでしょう。完璧な人間はいないのです。
私が、なぜ、杉山元に興味を持ったのか、それは、私の旧姓が、杉山だからです。
このところ、私は、なぜ、杉山という苗字で、事故や事件の犠牲者がいるか、疑問に持ちました。もともと人数が多いから、確率的に多いのかとも考えましたが、そればかりではない怪しい考えにとりつかれていたのです。
これは、こちらのサイトの趣旨と異なりますので、私個人で、折につけ調べることとなりますが、突然の投稿に、お返事いただきありがとうございました。
2005/10/23(日) 06:43 | URL | 阿久津 #79D/WHSg[ 編集]
平山様、ご回答をありがとうございました。貴重なお時間を割いていただきありがとうございました。
阿久津様、私は歴史の授業は寝てましたし、分厚い教科書はパラパラマンガを描くための存在でした。”正しい歴史の学習”というのも何か怖いような気もしますね。
2005/10/23(日) 15:36 | URL | hiepita #79D/WHSg[ 編集]
hiepita様
授業中は基本的には、寝てはいけないと思います。
歴史の学習は、それが発展的なものなら必要でしょうが、そうでなければ、黙して語らぬことが賢明かもしれないときがあります。
まして、正しい知識がなければ、語ることはできぬものです。また、差別発言は、それを口にしたほうが、恥ずかしいと思うべきだと考えることが正しいのではないかと考えます。また何かを調べることは、何か原因を探るという目的や、誰か救われるべき状況や、学問的思考以外、なされるべきではないものではなく動機が不純であってはならないと考えます。
また、靖国問題は、全ての戦没者を祀るべきだし、特定の宗教にとらわれるべきではなく、
あくまで、国家の存続のための犠牲者という
祀り方がなされるべきで、A~Cの格付けは、
特に要らないと思います。また、いつも参拝問題で大騒ぎになる。それに関し、海外に情報を与えすぎ、報道しすぎるところに問題があるのではないでしょうか。内政的なものを外国を使って、攻撃している勢力があるのではないか。私は、最近の日本人は、同じ日本人を外国勢力を使って、誹謗中傷しているように感じて、人間不信です。
2005/10/24(月) 00:57 | URL | 阿久津 #79D/WHSg[ 編集]
携帯専用おかずサイト
2005/11/19(土) 14:35 | URL | (゚▽゚) #79D/WHSg[ 編集]
私は、その後、「信じる」ことが大事だと再び思うようになりました。
また、杉山元元師のお墓参りに行きました。
小倉の出身であることが墓碑にありました。
福岡出身とされている記述は誤りではないかと思います。歴史の記述は誤りもあると感じました。
誰かが馬鹿な書き込みを先にしているので、このサイトはこれ以上は書き込まず、これで終わりにしたいと思います。
また、合祀に向け、話し合いがもたれていることで、一つの解決に向かったことは誠に安堵いたしました。
差別は部落差別以外にも、たくさんあるのですが、その一つ一つに対して、正しく理解と
是正がされることが理想ではあります。
かくいう、私も加害者であり被害者でもあるうるのですが、まず、人を信じることから再び始めようと考えました。
以上、それでは、皆さん、さようなら。
2005/11/28(月) 21:26 | URL | 阿久津 #79D/WHSg[ 編集]
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